(まとめ)マスコミ各社様に掲載・放送していただきました

3月27日(火)の奉迎行事の様子を、マスコミ各社様に報道いただきましたので、ご報告いたします。

(実行委員会事務局にて紙面掲載や各社様ニュース動画として確認が取れたもののみご紹介しています。他にもありましたら、順次追加して参ります)

両陛下は本日29日午前、豊見城市(とみぐすくし)の沖縄空手会館をご視察後、午後には東京・皇居へとお戻りになられますので、お時間の取れる方は沿道での奉迎・お見送りにもご参加いただけましたら幸いです。


琉球新報 平成30年3月28日付け 31ページ(第一社会面)

(写真台:2段12行、見出し:2段3行、記事本文:31行)

ネット記事は見当たらず

沖縄タイムス 平成30年3月28日付け、26ページ(第二社会面)

(写真台:1段8字取12行、見出し:3字取14行横見出し+2段2行縦見出し、記事本文:24行)

ネット記事→http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/229566

ネット記事のアーカイブ→https://archive.is/CmeGA

八重山日報沖縄本島版 平成30年3月28日付け、7ページ(第一社会面)

(写真台:2段7字取り(目測)17行、見出し:横見出し1段13行、記事本文21行)

ネット記事→https://www.yaeyama-nippo.com/2018/03/28/那覇で4千5百人-提灯大パレード-天皇陛下奉迎/

ネット記事のアーカイブ→http://archive.is/xogso


NHK(全国)

ネット記事(ネット動画配信は無し)→https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180327/k10011381821000.html

 

RBC(琉球放送)

ネット記事(動画あり)→https://www.rbc.co.jp/news_rbc/天皇皇后両陛下を歓迎する提灯奉迎/

 

QAB(琉球朝日放送)

天皇陛下沖縄ご訪問のニュース動画はあるものの、奉迎パレード・集いのニュースは見当たらず。

OTV(沖縄テレビ放送)

天皇陛下沖縄ご訪問のニュース動画はあるものの、奉迎パレード・集いのニュースは見当たらず。

 

 

 

「天皇皇后両陛下奉迎提灯大パレード」「奉迎提灯の集い」へのご参加・ご協力ありがとうございました

3月27日(火)に開催されました、「天皇皇后両陛下奉迎提灯大パレード」ならびに「奉迎提灯の集い」は、日本晴れの中、約4500名の参加者で大盛況となりました。

午後8時すぎに両陛下から御答礼を賜った際には、会場が一つになり感動の渦が巻き起こりました。

最後まで大きな事故もなく、参加者の皆様および関係者の皆様には心より感謝申し上げます。大変有難うございました。

 

 

(両陛下の沖縄ご訪問#10)平成26年6月26~27日、対馬丸事件七十年

対馬丸の犠牲者を偲ばれて

平成二十六年六月二十六~二十七日、両陛下は十回目の沖縄ご訪問を行われました。昭和十九年八月二十二日に疎開船・対馬丸(つしままる)が米軍の潜水艦により撃沈されてから七十年を迎えるにあたり、その慰霊のためのご訪問でした。

二十六日、那覇空港にご到着された両陛下は、平和祈念公園の平和祈念堂、国立沖縄戦没者墓苑をご訪問されました。翌二十七日には、那覇市にある、対馬丸の犠牲者を追悼する慰霊塔「小桜の塔」でご拝礼になり、献花を捧げられました。

小桜の塔入り口は、沖縄県の一宮・波上宮(なみのうえぐう)の鳥居の横にありますが、お車を降りられた両陛下は、まず波上宮に向かってご拝礼になりました。その後、対馬丸記念館で、対馬丸事件の生存者や遺族らとご懇談になりました。

両陛下の対馬丸への御心は深く、皇太子時代から「記憶しておかなければならない四つの日」(両陛下の沖縄ご訪問#7→https://hougei.okinawa/archives/2531)に加え、対馬丸遭難の日にも黙祷を捧げられています。

平成九年十二月十二日、海底に沈んだ対馬丸の発見が報じられると、陛下は次のようにお詠みになりました。

對馬丸見出さる

疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出されけり

陛下は同年の記者会見で、「戦争中、千五百人近くの乗船者を乗せた学童疎開船対馬丸が、米国の潜水艦に沈められ、その船体が悪石島(あくせきじま→Wikipedia)の近くの海底で横たわっているテレビの画面に映し出されました。私と同じ年代の多くの人々がその中に含まれており、本当に痛ましいことに感じています」と述べられました。

 

(両陛下の沖縄ご訪問#9)平成24年11月17~20日、全国豊かな海づくり大会

琉歌の里、万座毛をご視察

平成二十四年十一月十七~二十日、両陛下は第三十二回全国豊かな海づくり大会のため、九回目の沖縄ご訪問を行われました。

両陛下は十七日、那覇空港にご到着後、平和記念公園の平和記念堂において、元白梅(しらうめ)学徒隊の人々とご面会されました。白梅学徒隊は、沖縄戦で看護隊として戦闘に参加した沖縄第二高等女学校の学徒たちのことです。当初、白梅学徒隊を祀る白梅之塔への両陛下のご参拝が予定されていましたが、予定が変更となったため、白梅同窓会会長の中山きくさん達とご懇談になったのでした。

陛下は、中山さんたちに白い菊の花を渡されたあと、「白梅の塔はどちらの方面ですか」とご質問になり、指し示された方向に向かって、両陛下で黙祷を捧げられたといいます(陛下から賜(たまわ)った白い菊は、その後中山さんの手によって白梅之塔に手向け(たむけ)られました)。

平和祈念堂でのご懇談の後、両陛下は摩文仁の丘にある国立沖縄戦没者墓苑で供花され、その場でお待ちしていた沖縄県遺族会の代表者ら一人ひとりにお言葉をかけられました。

十九日には、沖縄海岸国定公園にある万座毛(まんざもう)をご視察になりました。万座毛のある恩納村(おんなそん)は、十八世紀に活躍した琉歌の二大女流歌人の一人「恩納なべ」の生誕の地であることから、琉歌の里としても有名な地です。万座毛にも「恩納なべの歌碑」が建立されています。

陛下は翌年の歌会始(うたかいはじめ)で次のようにお詠みになりました。

お題:立

万座毛に昔をしのび巡り行けば彼方(あがた)恩納岳さやに立ちたり

また、二十日には久米島を訪問され、沖縄県海洋深層水研究所をご視察になりました。

 

(両陛下の沖縄ご訪問#8)平成16年1月23~26日、国立劇場おきなわ開場記念公演・宮古島と石垣島をご訪問

組踊「執心鐘入」をご覧に

天皇陛下は平成十五年に全都道府県への行幸を果たされましたが、その二巡めの皮切りとなったのが沖縄県でした。

両陛下にとって八回め、九年ぶりとなる沖縄ご訪問は、平成十六年一月、浦添市に完成した「国立劇場おきなわ」のこけら落としの時でした。陛下は平成五年の沖縄ご訪問の折に、「伝統の組踊(くみおどり)を演じる場があれば」とのお気持ちを関係者に話されており、劇場の完成を大変喜ばれていました。

両陛下は二十三日、那覇空港に到着されるとまず南部へ行かれ、平和祈念堂に立ち寄られた後、国立沖縄戦没者墓苑でご供花の上、黙祷を捧げられました。そして、お迎えした遺族代表に一人一人お声をかけられました。

その夜、「国立劇場おきなわ」で組踊「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」をご覧になりました。能や歌舞伎の「道成寺」と同じ起源を持つと言われるこの演目は、首里城で一七一九年に上演された記録が残っています。この舞台に両陛下は盛んに拍手を送られました。

国立劇場 沖縄に開き 執心鐘入 見ちやるうれしや

国立劇場おきなわの構内には、陛下が詠まれたこの琉歌の歌碑が建てられています。

その後、両陛下は宮古島、石垣島をご訪問になりました。陛下は常々、離島や遠隔地の人たちを訪ねたいという気持ちを強くお持ちでした。侍従を通じ、「今回、初めて宮古島、石垣島を訪れることを楽しみにしています」と発表された両陛下の来訪に、両島とも多くの人が沿道に詰めかけ、わきかえりました。

宮古島では城辺町(ぐすくべちょう、当時)の農場でゴーヤー栽培の様子などを、石垣島では沖縄県水産試験場八重山支場で養殖研究池などをご視察になりました。

 

(両陛下の沖縄ご訪問#7)平成7年8月2日、戦後五十年「慰霊の旅」

「平和の礎(いしじ)」をご覧に

戦後五十年という大きな節目となった平成七年、両陛下は特に戦禍(せんか)が甚大であった長崎、広島、沖縄、東京を相次いでご訪問になりました。七月二十六日に長崎、翌二十七日に広島に赴かれ、一旦帰京された後、八月二日に沖縄に入られました。

平和祈念堂では、県内の遺族代表約百名とお会いになり、親しく会話を交わされました。名残り(なごり)を惜しみながら退出された両陛下のお姿が印象的だったといいます。

その後、国立沖縄戦没者墓苑を参拝され、続いて約二十四万人の犠牲者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」で、刻銘をつぶさにご覧になり、炎天下、差しかけられた日傘を辞される場面もありました。

「平和の礎」は約一ヶ月前に除幕式が行われたばかりでした。沖縄滞在はわずか五時間、まさに鎮魂のための日帰りのご訪問でした。

帰京された両陛下は、翌八月三日、休まれる暇もなく、東京都慰霊堂に赴かれ、慰霊の旅を終えられました。なお、前年の平成六年には、硫黄島の慰霊碑に拝礼されています。

その平成六年の沖縄慰霊の日(六月二十三日)は、両陛下はご訪米中で、サンフランシスコ市長夫妻主催の晩餐の予定でした。しかし、事情を説明して開始時間を調整してもらい、例年通り沖縄の式典で黙祷が行われる日本時間二十三日正午に合わせて、ホテルの部屋で黙祷を捧げられたといいます。

陛下は皇太子時代に「日本人が記憶しなければならない日」として、沖縄慰霊の日(六月二十三日)、広島原爆の日(八月六日)、長崎原爆の日(八月九日)、終戦の日(八月十五日)を挙げられ、これらの日には欠かさず黙祷を捧げておられます。

 

(両陛下の沖縄ご訪問#6)平成5年4月23~26日、全国植樹祭

即位後初のご訪問

平成五年四月二十三~二十六日、今上陛下は皇后陛下と共に第四十四回全国植樹祭ご出席のため、天皇に即位後初めて、皇太子時代から通算すると六回めとなる沖縄ご訪問を行われました。

糸満市の平和祈念公園に到着された両陛下は、摩文仁の丘をのぼられると、十八万余柱の戦没者の遺骨が納められた国立沖縄戦没者墓苑で献花され、深々と拝礼されました。

昭和天皇が「念願の沖縄訪問が実現することになりましたならば、戦歿者の霊を慰め、長年県民が味わってきた苦労をねぎらいたい」(昭和六十二年、記者会見にて)と願われた御心を受け継がれ、両陛下の沖縄ご訪問は南部戦跡の「祈り」から始まりました。

沖縄平和祈念堂では、陛下は遺族代表約百五十人を前に、原稿も見られずお言葉をゆっくり述べられました。当初二分間の予定だったお言葉は六分間に及び、その原稿は陛下が那覇に向かわれる飛行機の中でも推敲を重ねられておられたといいます。

二十三日夜には、那覇市の国際通りで、大提灯パレードが行われました。沖縄で提灯行列が行われたのは戦後初めてのことです。県庁前の沿道には「奉迎・感謝」の横断幕が掲げられ、五千人の参加者が日の丸の小旗を振りながら歩き、行幸啓の喜びを表しました。両陛下はご宿泊のハーバービューホテルの窓から、二十五分に渡って、親しく提灯を振ってお応えになりました。

二十五日の植樹祭では、天皇陛下は県木「リュウキュウマツ」の苗木を、皇后陛下は「フクギ」の苗木をお手植えになりました。植樹祭の会場となった糸満市米須の跡地は、その後整備が行われ、平成十年四月に「沖縄県平和創造の森公園」として開園しました。

 

 

(両陛下の沖縄ご訪問#5)昭和62年11月12~15日、全国身体障害者スポーツ大会

障害者スポーツを見守られて

昭和六十二年十一月十二~十五日、両陛下は、第二十三回全国身体障害者スポーツ大会(かりゆし国体)のため、五回めの沖縄ご訪問を行われました。

全国身体障害者スポーツ大会は、昭和三十九年の東京オリンピックに続いて開催されたパラリンピック東京大会の名誉総裁を務められた皇太子殿下(当時)が提唱され、翌昭和四十年から始まったものです。

両陛下はそれ以来、平成二年に現在の皇太子殿下・同妃殿下に引き継がれるまで、毎年この大会に出席され、選手や関係者にお声をかけられるなど、障害者スポーツの発展を見守り続けてこられました。

昭和六十二年九月下旬に手術を受けられた昭和天皇は、十月上旬にご退院になり、一時は公務に復帰されるまでに回復されたものの、ご病気は徐々に進行していきました。

崩御される約半年前の昭和六十三年七月下旬、昭和天皇は那須御用邸にお入りになりました。九月の下旬までここでご静養されますが、この頃にもなお、昭和天皇は沖縄ご訪問を諦めておられませんでした。

当時の藤森昭一宮内庁長官は関係者を宮内庁に呼び、「宮内庁としては、植樹祭とか国民体育大会ということでなく、特別に沖縄に行幸願うことを考えている。ついてはご意見を伺いたい」と打ち合わせていました。卜部(うらべ)亮吾侍従も「その後、一泊二日で南部戦跡を慰霊する計画も立てたのですが、結局、実現することはできませんでした」と証言しています。

九月十九日、昭和天皇は大量吐血され、ついに沖縄行幸のご悲願を遂げられることなく、昭和六十四年一月七日、崩御(ほうぎょ)なさいました。

「沖縄をたづねて果さむつとめ」は、今上陛下に託されることになったのです。

 

 

(両陛下の沖縄ご訪問#4)昭和62年10月24~25日、国民体育大会

昭和天皇のご名代

昭和六十二年十月二十四~二十五日、第四十二回国民体育大会(海邦国体秋季大会)が、沖縄県で開催されました。

国体の開会式には、天皇皇后両陛下がご臨席になります。つまり、昭和天皇が、天皇として初めて沖縄をご訪問されることとなったのです。(大正10年・1921年3月に皇太子としての欧州歴訪途中での沖縄ご訪問歴はありましたが、即位後は初めて。詳しくはWikipedia「皇太子裕仁親王の欧州訪問」をご覧ください)

昭和天皇は終戦後、戦没者の遺族を慰め、打ちひしがれる国民を励ますため、「全国ご巡幸」を行われましたが、唯一ご訪問が叶わなかったのが、米軍統治下にあった沖縄でした。昭和六十二年の海邦国体は、ようやく巡ってきたその機会でしたが、昭和天皇の突然の入院、ご手術のため、当時皇太子であった今上陛下がご名代として、沖縄をご訪問になりました。昭和天皇は、沖縄ご訪問に対して強い思いをお持ちでしたが、突然の病気で沖縄を訪問できなくなったご無念を、次の御製にお詠みになりました。

思はざる病(やまい)となりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを

十月二十四日、皇太子・同妃両殿下(当時)は那覇空港にご到着になった後、糸満市摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑をご参拝になり、遺族らが待つ沖縄平和祈念堂へ移動されました。

平和祈念堂の広間には、沖縄戦の遺族や県内の各界代表者ら百六十三名が整列し、両殿下をお迎え申し上げました。殿下は、妃殿下とともに広間の正面にお立ちになると、「お預かりして参りました、天皇陛下のお言葉をお伝えします」と前置きされ、昭和天皇のお言葉を一言一言、ゆっくりとご代読されました。

県遺族連合会の野村朝賢さんは、「陛下のお言葉をお聞きして、感動で涙を流しました。殿下がご代読されるお声を聞いているうちに、まるで陛下がそこにおられるような気持ちになったのです」と語りました。

陛下は、翌日の海邦国体開会式でも、昭和天皇のお言葉を代読されました。

 

(那覇市・波上宮境内にある昭和天皇御製碑に記されたお言葉)


↓↓↓こちらの記事で、全文を文字起こししていますので、合わせてご覧ください↓↓↓

(ヒストリー#2)昭和天皇のお言葉を代読された皇太子殿下

https://hougei.okinawa/archives/2470

 

(両陛下の沖縄ご訪問#3)昭和58年7月12~13日、献血運動推進全国大会

ひめゆり同窓会の人々と再会

両陛下は、昭和五十八年七月十二~十三日、第十九回献血運動推進全国大会のため、三度目の沖縄ご訪問をされました。

七年半ぶりのご訪問でしたが、この時も初日にまず国立沖縄戦没者墓苑をはじめ、南部戦跡をご巡拝になりました。ひめゆりの塔では、源ゆき子さんたち元隊員二十数名とも再会を果たされ、予定時間の倍もオーバーして様々に語り合われました。

その三回目の沖縄ご訪問後、陛下は次のご感想をお述べになりました。

「多くの犠牲を払った沖縄の人々が復帰を願って実現されたことを考える時、沖縄県民が復帰してよかったと思えることを願わずにはいられません。私どもはそのことをいつも念頭においてつとめていかなければならないと思います。珊瑚礁に囲まれた美しい島ですが、そこでは大勢の人々が亡くなっているわけです。初めて訪問した時に、伊江島では二人に一人、沖縄本島では三人に一人の人がこの戦争で亡くなったということを聞きました。これからもまた、沖縄県を訪れることがあるかと思います。いつもこのようなことが行われたことを心にかけていくつもりです」

両陛下は、本土の人々がほとんど沖縄に関心を向けていなかった頃から、「沖縄県民が復帰してよかったと思えること」を願われて、琉歌をはじめ沖縄の伝統文化を学ばれ、さらに昭和三十八年以来、毎年欠かさず「豆記者」とのご交流も積み重ねてこられました。そして、沖縄が本土に復帰するや、率先して沖縄の人々の間に入っていかれたのでした。

なお、「豆記者」は、沖縄と本土の中学校新聞部員交歓会メンバーのことで、相互に見聞を深め、親睦(しんぼく)をはかりました。

 

 

(両陛下の沖縄ご訪問#2)昭和51年1月17~18日、沖縄国際海洋博覧会閉会式

伊江島・今帰仁(なきじん)をご訪問

両陛下は、昭和五十一年一月十七~十八日、沖縄国際海洋博覧会閉会式のために再び沖縄をご訪問になりました。

最初のご訪問では初日に南部戦跡をご巡拝になった両陛下でしたが、この度は北部における激戦地の一つ、伊江島をご訪問されました。戦死した将兵・住民約三千五百名を祀る「芳魂之塔(ほうこんのとう)」をご参拝になり、遺族代表二十名にお声をかけられました。

伊江島は沖縄国際海洋博覧会会場の沖合にある島です。先に海洋博開会式に出席された両陛下は、屋良朝苗(やら・ちょうびょう)知事から「沖縄本島では三人に一人、伊江島では二人に一人が亡くなっている」という話をお聞きになり、閉会式に合わせて伊江島をご訪問になったのでした。

また両陛下は、県内最大級の城として名高い今帰仁村(なきじんそん)の「今帰仁城」をご訪問になり、寒緋桜(カンヒザクラ)をご覧になりました。今帰仁の寒緋桜は一月中旬、日本で一番早く咲く桜と言われ、この時もちょうど両陛下のご訪問に合わせたかのように、紅い花をつけたのでした。

陛下は、海洋博覧会の開会式・閉会式の二度の沖縄ご訪問を通して、次の琉歌(りゅうか)をお詠みになりました。

 

魂魄之塔(こんぱくのとう)

花よおしやげゆん 人知らぬ魂 戦ないらぬ世よ 肝に願て
(編注:戦=いくさ、肝=ちむ)

摩文仁(まぶに)

ふさかいゆる木 草めぐる戦跡 くり返し返し 思ひかけて

伊江島(いえじま)

広がゆる畑 立ちゆる城山 肝のしのばらぬ 戦世の事
(編注:肝=ちむ、戦世=いくさゆ)

 

琉歌は、八・八・八・六音を基調とした沖縄独特の歌ですが、沖縄の方々でも簡単に詠めるものではありません。この一事からも、陛下が、復帰前からずっと沖縄に御心を寄せ続けてこられたことが分かります。

 

(両陛下の沖縄ご訪問#1)昭和50年7月17~19日、沖縄国際海洋博覧会開会式

南部戦跡をご巡拝

沖縄は昭和四十七年五月十五日に祖国復帰を果たしましたが、その三年後の昭和五十年七月十七~十九日、皇太子同妃両殿下であられた両陛下は、沖縄国際海洋博覧会開会式にご臨席のため、初めて沖縄の地をご訪問されました。

左翼過激派が「皇太子訪沖阻止」を掲げて運動を展開する中でしたが、「石ぐらい投げられてもよい。そうしたことに恐れず、県民の中に入っていきたい」との強いご意志で、ひめゆりの塔、魂魄(こんぱく)の塔、島守之塔などの南部戦跡をご巡拝になりました。

最初の巡拝地「ひめゆりの塔」では、ひめゆり同窓会二十名が整列してお迎えする中、両陛下は大きな白菊の花束を手に歩を進められ、塔の前で深々と黙祷を捧げられました。

ご拝礼を終えられ、ひめゆり同窓会会長・源ゆき子さんがご説明申しあげようとした矢先のことでした。ひめゆりの塔が建っている地下壕から突然、隠れていた過激派二人が現れ、両陛下に向かって火炎びんを投げ付けました。

火炎びんは献花台に当たって炸裂。周囲が混乱に陥る中、警備の者たちは慌てて両陛下に避難いただくよう誘導しました。ところが、陛下は「私は大丈夫。源さんはどうしたか。源さんを見てあげて」とおっしゃられ、なかなか下がろうとされません。警備の者は半ば力づくで陛下をお車までお連れしたのでした。

突然の火炎びんの投擲(とうてき)にも動じられず、ご自身よりも案内役の源さんを気遣われる陛下の高潔なお姿に、その場に居合わせた人々は大きな感銘を受けたのでした。

陛下は、昭和五十一年の歌会始で次の御歌をお詠みになりました。

お題『坂』
みそとせの歴史流れたり摩文仁の坂平らけき世に思ふ命たふとし

(編注:みそとせ=三十年、たふとし=尊し)

 

 

 

(ヒストリー#3)本土復帰の日~『屋良朝苗日誌』より~

今回は、少し時間を巻き戻し、昭和47年(1972年)の本土復帰の日(5月15日)前後の、琉球政府行政主席だった屋良朝苗(やら・ちょうびょう)氏の日記をご紹介したいと思います。

この日記の5月18日の記述の中に、園遊会に出席した屋良朝苗氏に、天皇陛下(昭和天皇)と皇太子殿下・同妃殿下(現在の天皇・皇后両陛下)が親しくお声をかけられた様子が記されています。

長文となりますが、編集せず原文のままにご紹介いたします。


 

『屋良日誌030』

5 月14 日(日)雨 〔日付が変わり沖縄県になる瞬間〕
〔略〕復帰の時間は後十分、後五分、後一人(ママ)、秒読みにうつり遂に十二時サイレン。キテキは聞えなかった。
遂に復帰は実現した。感慨殊の外に深いが実感が湧かない。私は遂に主席から知事になった。知事となり一路県庁知事室に戻る。一時間位もかかったか。あいさつ、議会開会準備のなすべき署名、日中の日程を打ち合わせて内へ帰る。三時頃になっていたと思う。もう沖縄県になり公舎は知事官舎に代わっている。早速寝につき、五時半に起きる。徹夜と思ったが、二時間位はねむった。最十五日になっている。

5 月15 日(月)雨〔復帰の日〕
昨夜来雨は止まない。軽く朝食をかき込み、六時半に登庁。すぐ初県〔議〕会場に出席、あいさつ。議案を一括提案して戻る。七時二〇分RBC、これは市民会館の玄関であった。
続いてNHK の一〇二番組のインタービュー。それが終って県庁に帰り庁舎の標札を取りかえる式に立ち会い、長い間はりつけられていた標札も遂に撤去、文化財委員会委員大城立裕氏にそれを托し次に県庁門札の除幕式に出席す。除幕に立ち会った児童の一人は正子であった。終って記念植樹。県庁の行事も終り市民会館に向う。車が混みひやひやした。
十時五分頃に公舎に帰り家内を案内して市民会館に向う。私はひかえ室には入り家内は直ちに会場に入場す。ひかえ室でしばらく待ち、山中長官に案内されてステージに上り向って左側に来賓右側に本土政府側。
先ずしばらく待つ。東京の記念式典から君代(ママ)斉唱が流れ、佐藤総理の感激のあいさつあり。その後に天皇の御言葉を聞き、その後に黙祷しそれから沖縄における国の記念式典の本番には入る。
山中長官の総理大臣代理あいさつ、その後に私のあいさつ、星さんのあいさつ。それから衆院代表床次先生、参院代表長谷川仁氏、最高裁代理あいさつ。米国沖縄駐在の総領事のあいさつあって万才三唱の後、国の式典は終り、一応閉式。ひかえ室に戻り昼食。会場には午後の式典の為に居残ると思ったが殆ど出払ってしまって心配する。午前の国の式典には革新系議員等は欠席。まったく子供見た様に思う。そう云う事があったから午後は保守的の人々は参加しない現象があらわれはしないかと私は大変心配になる。〇時半から古典芸能の鑑賞会あり、皆さんを案内してみてもらう。七番出たが一流の人々のみの出演で皆感動して居られた。この計画は上首尾であった。はじめは空席が多く私の不安は一段と増す。一時四〇分頃に終り一応ひかえ室に戻り、二時に来賓案内入場した時は一杯席は埋
り段々来場遂には満員。午前の式典をはるかにしのぐ満員振りにやっと安堵の胸をなでおど(ママ)す。中央檀上に梯梧の造花の花を盛りありあげ盛観。ステージの模様は国の場合よりけんらんなものがあった。君代(ママ)斉唱はなかったが開会の前後の立(ママ)楽は壮大ですばらしかった。
あの音楽は迫水秘書官も絶賛していた。県の発足式典は花はサンゴ礁を両側にして中央に梯梧の花を一杯盛り国旗は客席から向って左側にかざり、中央にはスローガンをかざり右側には県章がかざられ、式中或時期に明りを消して照明で県章を照らしそして県歌の発表等ユニークなアイデアが織りこまれて演出は百%良かった。更に私が良かったと思ったのは県の式典には参加者一階の如きは超満員で熱気溢れている事であった。私の琉球政府解散と沖縄の発足宣言も非常に力強くなされたと思うし引続いての私の式辞も熱血たぎり燃ゆる様な情熱によしやるぞと云う闘志が万(ママ)身から湧いた。非常に力強かったの印象を聴衆否全県民に与えたようだ。星議長のあいさつ、山中長官の祝辞、衆院代表床次先生、参院
代表長谷川先生、最高裁長官の代理あいさつ、全国知事会代表佐賀県知事、九州知事会代表福岡県亀井知事あいさつ、最後に沖縄市町村会長平良那覇市長のあいさつですべては終る。
次は第二大ホールで祝賀レセプション。超満員であった。こんな盛大圧巻なレセプションは空前にして絶後であろうと思う。レセプション中におどりも面白かった。美濃部東京都知事も見え、午後の大会の始る前に館長室で御目にかかりあいさつ。それからレセプションの最中も御目にかかる。ゆっくり御つき合いの出来なかった事は残念。その後四、三〇分から大会場のステージで合同記者会見。それも無事に終り、開発金融公庫の発足式典、その後レセプション。その後にRBC 稲福さんとテレビ対談。六時にNHK前田会長、公舎来訪表敬あり。それが終り七時から山中長官夫妻を那覇に迎えて私共夫婦でかつてない歴史的夕食会を催す。十時頃まで非常に楽しく語り、心から御礼感謝をのべ芸能を鑑賞し一日の幕を閉じる。途中で上江洲文子さんが自民党の友寄さんが一分間でよいから会いたいと申し出たが場所が違うと拒否して居られた。流石である。
今日は二時間位しか休んでいない上に長い間の緊張の連続も重なっていたので疲れも出たはずだが何のつかれもなく何の支障もなく無事にこの世紀の大行事を終る事が出来た。
安心した。はじめて開(ママ)放された。沖縄県が生まれた喜び、今までの心配事から開(ママ)放された
喜び、沖縄の歴史の前後に只一回しかない頂点に到達し無事に乗りこえた喜びが錯綜し戦後二度目の喜びにめぐり合った。かくて今日から主席ではなく沖縄県知事となった。而も初代知事になった。歴史的一日の幕を閉じた。終戦以来復帰を希求し且必ず実現するとの大前提に立ってその準備にそなえて一仕事、一仕事を地道に計画し実践して来た。私に天はその復帰の〆くくりを完成させた。運命のめぐり合わせと云おうか。
私の運命でもあり沖縄の運命でもあったのではないか。私が全く無私没我の状態でこの難苦行にさいなまれて来た。しかし私は心身共完全健康も維持して来た。われに神仏の加護があったと信ずる。

5 月17 日(水)快晴 〔佐藤首相と面会〕
九時に兵庫の副知事表敬。久留米の馬場夫人外表敬。
県庁標札前でNHK インタービュー。副知事帰任連絡十時半、合同記者会見。物価問題や上京の件について。大急ぎで公舎へ帰り着がえて飛行場へ。パスポートなしではじめて上京。嬉しかった。感激し復帰の現実性をかみしめた。何よりの感激だった。十五、十六日の日誌を飛行中に整理する。今日からは全く生れ代(ママ)った様に気も心も晴れて自信に充ちていた。
神山先生も知事室に見えていた。涙がでる程、感に打たれた。
無事予定の時間に羽田着く。国内空港につくのも沖縄からははじめてである。マスコミ数名は見えて居ったがまとまっていないので総理会見後に首相官邸で合わせて会見する事にした。税関も通らずに直ぐ外に出る。只只うれしく開放されたと云う喜びをかみしめた。
赤嶺さんはじめ夫人の方々十名位迎えて下さって花束の贈呈ありで大変にぎやかな知事初上京のにぎわいだった。
県人会の山城事務局長、東京事務所の皆さんも迎えて下さる。
直ちにホテル東急に行って準備。四時に官邸に。総理に会見。にこやかに迎えて下さる。
しばらく写真のフラッシュをあびて室には入り、二人丈で話す。
復帰実現の御礼、沖縄式典の御経過等報告。
ドル交換に起因してか物価の値上りさわぎの実情等話し、通貨交換とレートの関係を糾明していくのでその節引続き本土政府に協力方を求めねばならぬ事もあるので協力頼むと依頼する。大いに甘えてくれと充分協力の姿勢を示して下さった。
復帰はしたが御承知の様なむつかしい諸問題をかかえているので復帰後の解決にも協力を依頼した。特に核抜きに対する不安を訴える。それに対しては大統領と総理との約束である以上、それを信頼してもらう外はない、国務長官から外務大臣宛に核撤去されたとの公文も届いている以上、一応それを信頼してもらい若し疑わしい事があったらその時は対策を講ずると云う事以外はないのではないか、要するに何か疑わしい事があったら方法を考えると云うに止る。措置なし。ベトナム戦争の終らない今日、自由発進基地になる恐れを訴える。それに対しては事前協議に依って絶対に自由発進は許さない。そう云う事はあり得ないと断言された。只心配だったのは若しベトナム戦争の関係で復帰の延期と云う事が起りはしないかとの強い心配があったと述懐して居られた。そう云う事がなくて安心したと。その他新生沖縄づくり社会立て直し、経済開発等に今後の協力要請に対し、たがいに力を合わせて努力しようと握手する。
いつでもよいから訪ねてきて話てくれと、そして甘えてもらえる気持ちは充分だと断言して居られた。
最後に新生沖縄づくりに県民も希望をもって頑張ってくれ、国としては最善をつくすと結ばれた。その後合同記者会見。そこではメッセージを送り、総理との会見経過を話す。〔略〕

5 月18 日(木)晴〔園遊会に参加〕
〔略〕一時半、園遊会に出発。午前中家内の友人城間さん永山さん来訪。
園遊会は前回通り宮内省(ママ)の係り官の案内で私には陛下が話しかけられるとの事で所定の場所を指定さる。森戸先生夫妻も指定され前回同様になった。カメラの焦点になって五名の人に直接御声がかりがあるとの事。森戸先生に始り私は四番目であった。
私の前に来られた天皇は沖縄の復帰を喜ばしく思う、良かったですねと話しかけられた。
私は用意してあった言葉を一気に申し上げた。「二七年振りに復帰した沖縄県知事屋良朝苗であります。陛下には長い間、常に沖縄復帰を御気に止めていただいて有がとうございました。御かげ様で去る五月十五日念願の復帰は実現しました。私一生の感激でございます。
つきましては今後は新生沖縄づくりに全県民心を合わせて最善の努力をいたします」と申し上げた。
陛下は今後平和な幸せな沖縄をつくりあげていって下さいと云って居られた。皇后陛下もにこっと会釈。天皇も笑顔で応待して居られた。続いて皇太子も復帰を喜ばれて御声があった。これから又むつかしい問題もあろうが頑張ってもらいたいと云う意味の話があった。私も御関心に御礼をのべ少年会館の事も一言ふれておいた。美智子殿下はしみじみと長い間ご苦労様でした、大変だったでしょうと心からねぎらいの御言葉が私にも家内にものべて居られた。何となく強くだき取る庶民の言葉が感じられた。心なしか美智子殿下はうつむき勝ちで話して居られる様に思った。つづいてひたち宮夫妻も一寸復帰問題についてあいさつがあり私も一言有りがとうとのべた様に思う。秩父妃殿下もしみじみ御苦労さまでした、大変苦労された事でしょうと心からのねぎらいと励しの言葉があった。高松宮殿下も同様復帰を喜ばれ労をねぎらい励ましの言葉があり、最後にこれはビス(ママ)ネスだがとライ予防の話をされ東風会の話をされ、その為に沖縄を一度訪問したいとの事であった。
渋沢敬三先生が初代会長であったのか先生の話も出たので私が先生にも御交誼をいただいている事を話したら妃殿下はうなづきその事も承知している様な風だった。とにかく皇室の方々殆どが沖縄を代表する私の労をねぎらい同情し今後の励しの御気持が充分察しがついた。殊に印象的だったのは美智子妃が家内に私の身体を大事にしてあげて下さいとの事を仰言った事。秩父宮妃が大変だったでしょうと同情の言葉をかけられた事。御二人華族とは云え庶民の御出身であっての事かと思った。
円(ママ)遊会の焦点は私にあてられた感じ。森戸先生をはじめ五名の名士が御言葉をかけられる幣(ママ)席でならんで居たが、NHK は私のみには懐中マイクをつけさせてあったから。私にとってはこれで二回目の円(ママ)遊会であったが二回御声をかけられる代表的存在になり写真班の砲列の焦点にもなった。テレビやラジオ、新聞の種子ともなった。やはり沖縄への関心と云うものか。その後に首相御夫妻にも会った。にこやかに親近感に充ちた首相の態度であった。晩は御贈りした記念品の御礼を御夫人から直接にのべて下さった事には恐縮した。
その後に山中大臣夫妻に会い長話をしてこれ又印象的であった。森戸先生夫婦にも久し振りに会った。木村企画庁長官夫婦にも久し振りにあった。奥様から差し上げて宝物箱を重宝しているという御あいさつであった。その他多くの方に会ったが省略する。〔略〕
歴史的の一日は終る。

 


資料 『屋良朝苗日誌』 – 早稲田大学リポジトリ(PDF)より抜粋
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=16425&file_id=20&file_no=1

 

(ヒストリー#2)昭和天皇のお言葉を代読された皇太子殿下

昭和天皇のご名代として

昭和62年(1987年)10月24日~25日、皇太子殿下・同妃殿下(現在の天皇皇后両陛下)は、海邦国体(第42回国民体育大会秋季大会)開会式ご臨席のため、沖縄をご訪問になりました。両殿下にとって、4回めの沖縄ご訪問でした。

両殿下は、那覇空港にご到着後、糸満市摩文仁の国立戦没者墓苑と沖縄平和祈念堂を訪れ、沖縄戦の遺族や県内の各界代表者らとお会いになり、昭和天皇からお預かりになったお言葉を、ゆっくりと一言一言ご代読になりました。

 


さきの大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含む数多(あまた)の尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も永らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき、深い悲しみと痛みを覚えます。

ここに、改めて、戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々やその遺族に対し、哀悼の意を表するとともに、戦後の復興に尽力した人々の労苦を心からねぎらいたいと思います。

終戦以来すでに四十二年の歳月を数え、今日この地で親しく沖縄の現状と県民の姿に接することを念願していましたが、思わぬ病のため今回沖縄訪問を断念しなければならなくなったことは、誠に残念でなりません。

健康が回復したら、できるだけ早い機会に訪問したいと思います。

皆には、どうか今後とも相協力して、平和で幸せな社会を作り上げるため、更に努力してくれることを切に希望します。


県遺族連合会の野村朝賢さんは、「陛下のお言葉をお聞きして、感動で涙を流しました。殿下がご代読されるお声を聞いているうちに、まるで陛下がそこにおられるような気持ちになったのです」と語りました。

そして、翌25日、両殿下は沖縄県総合運動公園陸上競技場で海邦国体開会式にご出席され、皇太子殿下が前日のお言葉に加え、沖縄行幸啓中止を残念にお思いであること、戦争の辛苦を乗り越えた県民へのねぎらいのお気持ちなどが綴られたお言葉をご代読されました。

 

(読売新聞社の紙面のあゆみを紹介するWebサイトで、たまたま4万号として、このご訪問の記事が掲載されていました。以下のサイトもぜひ合わせてご覧になってみてください)

https://info.yomiuri.co.jp/media/yomiuri/ayumi/ayumi_14.html

 

 

(ヒストリー#1)昭和天皇の沖縄への思い

昭和62年(1987年)10月、第42回国民体育大会(海邦国体秋季大会)が、沖縄県で開催されました。

海邦国体開催の知らせを聞いて、沖縄の人々は高まる期待を隠せませんでした。国体の開会式には、天皇皇后両陛下がご臨席になります。つまり昭和天皇が、天皇として初めて沖縄をご訪問になるのです。

昭和天皇は、海邦国体を半年後に控え、沖縄ご訪問に対するお気持ちを次のようにお述べになりました。

《念願の沖縄訪問が実現することになりましたならば、戦没者の霊を慰め、長年県民が味わってきた苦労をねぎらいたいと思います。また、できるだけ県内の実情を見て回り、これからも県民が力を合わせて困難を乗り越え、県の発展と県民の幸福のために努めてくれるよう励ましたいと思っています》(昭和62年4月記者会見)

昭和47年の祖国復帰以来、昭和天皇の行幸を心待ちにしていた沖縄県は、心を込めてお迎えすべく全庁体制で準備に臨みました。その指揮を執った県知事公室の比嘉安正さんは、次のように語っています。

「沖縄県民としてこんなに光栄なことはありません。また今の陛下のもとで沖縄がこのような機会に遭うことは再びないでしょう。ですから、是非あたたかい気持ちでお迎えしたいのです」

一方で、この頃の沖縄では、「日の丸・君が代反対」「天皇来沖反対」の活動を展開する県民もいました。しかし、当時琉球新報が行った「天皇陛下ご来沖についての県民意識」調査では、県民の42.5%が賛成、反対はわずか8.2%という結果となりました。反対派の思惑に反し、昭和天皇沖縄行幸に寄せる県民の期待がいかに大きなものであったかが分かります。

ところが、海邦国体を間近に控えた9月、思いもよらぬ知らせが人々の耳に飛び込んできました。9月19日、新聞は「天皇陛下、腸のご病気 手術の可能性も」との見出しの記事を一面で報じました。そして、その報道の通り22日、昭和天皇は宮内庁病院にご入院になり、腸のバイパス手術を受けられました。

この突然の知らせを受け、沖縄では県知事以下、関係者が相次いでコメントを発表し、ご病気の一日も早いご平癒(へいゆ)と沖縄行幸実現を念願する声が多数寄せられました。しかし28日、宮内庁は正式に昭和天皇の沖縄ご訪問延期を発表しました。

沖縄ご訪問は、昭和天皇のご悲願でもありました。ご入院中の昭和天皇は、ベッドの上で沖縄ご訪問延期の記事をお読みになり、「沖縄には行かなくてはならなかった」と一言呟かれたといいます。そして、そのご無念を次の御製(ぎょせい=天皇陛下が作られる和歌のこと)に詠まれました。

思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを

先のお言葉にあった「戦没者の霊を慰め、長年県民が味わってきた苦労をねぎらう」ことは、昭和天皇にとって、まさに沖縄を訪ねて果たさねばならぬ「つとめ」だったのです。

こうして、昭和天皇の思いは、皇太子殿下(現在の天皇陛下)に託されることとなりました。


(写真は那覇市・波上宮境内の御製碑。沖縄県内では他に宮古島市の宮古神社にも御製碑が建立されています)

 

 

(動画)3.8実行委員会発会式 奉迎委員代表挨拶 照喜名朝一氏

奉迎委員代表・照喜名朝一氏(人間国宝、琉球古典安富祖流音楽研究朝一会 総帥)

 

照喜名朝一氏は両陛下の行幸啓について、「今、夢見心地だ」と心境を述べたほか、沖縄県民のチムグクルは世界に通じると指摘し、「大歓迎したい」と意気込みを示されました。

ウチナーグチ(沖縄口)を交え、ゆっくりとした話しながらも、照喜名朝一氏の心のこもったスピーチは、会場にいた多くの参加者の方々の胸にもしっかりと響いていたと思います。