(ヒストリー#3)本土復帰の日~『屋良朝苗日誌』より~

今回は、少し時間を巻き戻し、昭和47年(1972年)の本土復帰の日(5月15日)前後の、琉球政府行政主席だった屋良朝苗(やら・ちょうびょう)氏の日記をご紹介したいと思います。

この日記の5月18日の記述の中に、園遊会に出席した屋良朝苗氏に、天皇陛下(昭和天皇)と皇太子殿下・同妃殿下(現在の天皇・皇后両陛下)が親しくお声をかけられた様子が記されています。

長文となりますが、編集せず原文のままにご紹介いたします。


 

『屋良日誌030』

5 月14 日(日)雨 〔日付が変わり沖縄県になる瞬間〕
〔略〕復帰の時間は後十分、後五分、後一人(ママ)、秒読みにうつり遂に十二時サイレン。キテキは聞えなかった。
遂に復帰は実現した。感慨殊の外に深いが実感が湧かない。私は遂に主席から知事になった。知事となり一路県庁知事室に戻る。一時間位もかかったか。あいさつ、議会開会準備のなすべき署名、日中の日程を打ち合わせて内へ帰る。三時頃になっていたと思う。もう沖縄県になり公舎は知事官舎に代わっている。早速寝につき、五時半に起きる。徹夜と思ったが、二時間位はねむった。最十五日になっている。

5 月15 日(月)雨〔復帰の日〕
昨夜来雨は止まない。軽く朝食をかき込み、六時半に登庁。すぐ初県〔議〕会場に出席、あいさつ。議案を一括提案して戻る。七時二〇分RBC、これは市民会館の玄関であった。
続いてNHK の一〇二番組のインタービュー。それが終って県庁に帰り庁舎の標札を取りかえる式に立ち会い、長い間はりつけられていた標札も遂に撤去、文化財委員会委員大城立裕氏にそれを托し次に県庁門札の除幕式に出席す。除幕に立ち会った児童の一人は正子であった。終って記念植樹。県庁の行事も終り市民会館に向う。車が混みひやひやした。
十時五分頃に公舎に帰り家内を案内して市民会館に向う。私はひかえ室には入り家内は直ちに会場に入場す。ひかえ室でしばらく待ち、山中長官に案内されてステージに上り向って左側に来賓右側に本土政府側。
先ずしばらく待つ。東京の記念式典から君代(ママ)斉唱が流れ、佐藤総理の感激のあいさつあり。その後に天皇の御言葉を聞き、その後に黙祷しそれから沖縄における国の記念式典の本番には入る。
山中長官の総理大臣代理あいさつ、その後に私のあいさつ、星さんのあいさつ。それから衆院代表床次先生、参院代表長谷川仁氏、最高裁代理あいさつ。米国沖縄駐在の総領事のあいさつあって万才三唱の後、国の式典は終り、一応閉式。ひかえ室に戻り昼食。会場には午後の式典の為に居残ると思ったが殆ど出払ってしまって心配する。午前の国の式典には革新系議員等は欠席。まったく子供見た様に思う。そう云う事があったから午後は保守的の人々は参加しない現象があらわれはしないかと私は大変心配になる。〇時半から古典芸能の鑑賞会あり、皆さんを案内してみてもらう。七番出たが一流の人々のみの出演で皆感動して居られた。この計画は上首尾であった。はじめは空席が多く私の不安は一段と増す。一時四〇分頃に終り一応ひかえ室に戻り、二時に来賓案内入場した時は一杯席は埋
り段々来場遂には満員。午前の式典をはるかにしのぐ満員振りにやっと安堵の胸をなでおど(ママ)す。中央檀上に梯梧の造花の花を盛りありあげ盛観。ステージの模様は国の場合よりけんらんなものがあった。君代(ママ)斉唱はなかったが開会の前後の立(ママ)楽は壮大ですばらしかった。
あの音楽は迫水秘書官も絶賛していた。県の発足式典は花はサンゴ礁を両側にして中央に梯梧の花を一杯盛り国旗は客席から向って左側にかざり、中央にはスローガンをかざり右側には県章がかざられ、式中或時期に明りを消して照明で県章を照らしそして県歌の発表等ユニークなアイデアが織りこまれて演出は百%良かった。更に私が良かったと思ったのは県の式典には参加者一階の如きは超満員で熱気溢れている事であった。私の琉球政府解散と沖縄の発足宣言も非常に力強くなされたと思うし引続いての私の式辞も熱血たぎり燃ゆる様な情熱によしやるぞと云う闘志が万(ママ)身から湧いた。非常に力強かったの印象を聴衆否全県民に与えたようだ。星議長のあいさつ、山中長官の祝辞、衆院代表床次先生、参院
代表長谷川先生、最高裁長官の代理あいさつ、全国知事会代表佐賀県知事、九州知事会代表福岡県亀井知事あいさつ、最後に沖縄市町村会長平良那覇市長のあいさつですべては終る。
次は第二大ホールで祝賀レセプション。超満員であった。こんな盛大圧巻なレセプションは空前にして絶後であろうと思う。レセプション中におどりも面白かった。美濃部東京都知事も見え、午後の大会の始る前に館長室で御目にかかりあいさつ。それからレセプションの最中も御目にかかる。ゆっくり御つき合いの出来なかった事は残念。その後四、三〇分から大会場のステージで合同記者会見。それも無事に終り、開発金融公庫の発足式典、その後レセプション。その後にRBC 稲福さんとテレビ対談。六時にNHK前田会長、公舎来訪表敬あり。それが終り七時から山中長官夫妻を那覇に迎えて私共夫婦でかつてない歴史的夕食会を催す。十時頃まで非常に楽しく語り、心から御礼感謝をのべ芸能を鑑賞し一日の幕を閉じる。途中で上江洲文子さんが自民党の友寄さんが一分間でよいから会いたいと申し出たが場所が違うと拒否して居られた。流石である。
今日は二時間位しか休んでいない上に長い間の緊張の連続も重なっていたので疲れも出たはずだが何のつかれもなく何の支障もなく無事にこの世紀の大行事を終る事が出来た。
安心した。はじめて開(ママ)放された。沖縄県が生まれた喜び、今までの心配事から開(ママ)放された
喜び、沖縄の歴史の前後に只一回しかない頂点に到達し無事に乗りこえた喜びが錯綜し戦後二度目の喜びにめぐり合った。かくて今日から主席ではなく沖縄県知事となった。而も初代知事になった。歴史的一日の幕を閉じた。終戦以来復帰を希求し且必ず実現するとの大前提に立ってその準備にそなえて一仕事、一仕事を地道に計画し実践して来た。私に天はその復帰の〆くくりを完成させた。運命のめぐり合わせと云おうか。
私の運命でもあり沖縄の運命でもあったのではないか。私が全く無私没我の状態でこの難苦行にさいなまれて来た。しかし私は心身共完全健康も維持して来た。われに神仏の加護があったと信ずる。

5 月17 日(水)快晴 〔佐藤首相と面会〕
九時に兵庫の副知事表敬。久留米の馬場夫人外表敬。
県庁標札前でNHK インタービュー。副知事帰任連絡十時半、合同記者会見。物価問題や上京の件について。大急ぎで公舎へ帰り着がえて飛行場へ。パスポートなしではじめて上京。嬉しかった。感激し復帰の現実性をかみしめた。何よりの感激だった。十五、十六日の日誌を飛行中に整理する。今日からは全く生れ代(ママ)った様に気も心も晴れて自信に充ちていた。
神山先生も知事室に見えていた。涙がでる程、感に打たれた。
無事予定の時間に羽田着く。国内空港につくのも沖縄からははじめてである。マスコミ数名は見えて居ったがまとまっていないので総理会見後に首相官邸で合わせて会見する事にした。税関も通らずに直ぐ外に出る。只只うれしく開放されたと云う喜びをかみしめた。
赤嶺さんはじめ夫人の方々十名位迎えて下さって花束の贈呈ありで大変にぎやかな知事初上京のにぎわいだった。
県人会の山城事務局長、東京事務所の皆さんも迎えて下さる。
直ちにホテル東急に行って準備。四時に官邸に。総理に会見。にこやかに迎えて下さる。
しばらく写真のフラッシュをあびて室には入り、二人丈で話す。
復帰実現の御礼、沖縄式典の御経過等報告。
ドル交換に起因してか物価の値上りさわぎの実情等話し、通貨交換とレートの関係を糾明していくのでその節引続き本土政府に協力方を求めねばならぬ事もあるので協力頼むと依頼する。大いに甘えてくれと充分協力の姿勢を示して下さった。
復帰はしたが御承知の様なむつかしい諸問題をかかえているので復帰後の解決にも協力を依頼した。特に核抜きに対する不安を訴える。それに対しては大統領と総理との約束である以上、それを信頼してもらう外はない、国務長官から外務大臣宛に核撤去されたとの公文も届いている以上、一応それを信頼してもらい若し疑わしい事があったらその時は対策を講ずると云う事以外はないのではないか、要するに何か疑わしい事があったら方法を考えると云うに止る。措置なし。ベトナム戦争の終らない今日、自由発進基地になる恐れを訴える。それに対しては事前協議に依って絶対に自由発進は許さない。そう云う事はあり得ないと断言された。只心配だったのは若しベトナム戦争の関係で復帰の延期と云う事が起りはしないかとの強い心配があったと述懐して居られた。そう云う事がなくて安心したと。その他新生沖縄づくり社会立て直し、経済開発等に今後の協力要請に対し、たがいに力を合わせて努力しようと握手する。
いつでもよいから訪ねてきて話てくれと、そして甘えてもらえる気持ちは充分だと断言して居られた。
最後に新生沖縄づくりに県民も希望をもって頑張ってくれ、国としては最善をつくすと結ばれた。その後合同記者会見。そこではメッセージを送り、総理との会見経過を話す。〔略〕

5 月18 日(木)晴〔園遊会に参加〕
〔略〕一時半、園遊会に出発。午前中家内の友人城間さん永山さん来訪。
園遊会は前回通り宮内省(ママ)の係り官の案内で私には陛下が話しかけられるとの事で所定の場所を指定さる。森戸先生夫妻も指定され前回同様になった。カメラの焦点になって五名の人に直接御声がかりがあるとの事。森戸先生に始り私は四番目であった。
私の前に来られた天皇は沖縄の復帰を喜ばしく思う、良かったですねと話しかけられた。
私は用意してあった言葉を一気に申し上げた。「二七年振りに復帰した沖縄県知事屋良朝苗であります。陛下には長い間、常に沖縄復帰を御気に止めていただいて有がとうございました。御かげ様で去る五月十五日念願の復帰は実現しました。私一生の感激でございます。
つきましては今後は新生沖縄づくりに全県民心を合わせて最善の努力をいたします」と申し上げた。
陛下は今後平和な幸せな沖縄をつくりあげていって下さいと云って居られた。皇后陛下もにこっと会釈。天皇も笑顔で応待して居られた。続いて皇太子も復帰を喜ばれて御声があった。これから又むつかしい問題もあろうが頑張ってもらいたいと云う意味の話があった。私も御関心に御礼をのべ少年会館の事も一言ふれておいた。美智子殿下はしみじみと長い間ご苦労様でした、大変だったでしょうと心からねぎらいの御言葉が私にも家内にものべて居られた。何となく強くだき取る庶民の言葉が感じられた。心なしか美智子殿下はうつむき勝ちで話して居られる様に思った。つづいてひたち宮夫妻も一寸復帰問題についてあいさつがあり私も一言有りがとうとのべた様に思う。秩父妃殿下もしみじみ御苦労さまでした、大変苦労された事でしょうと心からのねぎらいと励しの言葉があった。高松宮殿下も同様復帰を喜ばれ労をねぎらい励ましの言葉があり、最後にこれはビス(ママ)ネスだがとライ予防の話をされ東風会の話をされ、その為に沖縄を一度訪問したいとの事であった。
渋沢敬三先生が初代会長であったのか先生の話も出たので私が先生にも御交誼をいただいている事を話したら妃殿下はうなづきその事も承知している様な風だった。とにかく皇室の方々殆どが沖縄を代表する私の労をねぎらい同情し今後の励しの御気持が充分察しがついた。殊に印象的だったのは美智子妃が家内に私の身体を大事にしてあげて下さいとの事を仰言った事。秩父宮妃が大変だったでしょうと同情の言葉をかけられた事。御二人華族とは云え庶民の御出身であっての事かと思った。
円(ママ)遊会の焦点は私にあてられた感じ。森戸先生をはじめ五名の名士が御言葉をかけられる幣(ママ)席でならんで居たが、NHK は私のみには懐中マイクをつけさせてあったから。私にとってはこれで二回目の円(ママ)遊会であったが二回御声をかけられる代表的存在になり写真班の砲列の焦点にもなった。テレビやラジオ、新聞の種子ともなった。やはり沖縄への関心と云うものか。その後に首相御夫妻にも会った。にこやかに親近感に充ちた首相の態度であった。晩は御贈りした記念品の御礼を御夫人から直接にのべて下さった事には恐縮した。
その後に山中大臣夫妻に会い長話をしてこれ又印象的であった。森戸先生夫婦にも久し振りに会った。木村企画庁長官夫婦にも久し振りにあった。奥様から差し上げて宝物箱を重宝しているという御あいさつであった。その他多くの方に会ったが省略する。〔略〕
歴史的の一日は終る。

 


資料 『屋良朝苗日誌』 – 早稲田大学リポジトリ(PDF)より抜粋
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=16425&file_id=20&file_no=1